PF-JPA




悪しき審査請求制度と、
審査請求料の大幅値上げ


Takenaga Kawakita
日本弁理士政治連盟
弁理士 川北 武長


1. はじめに(一度言ってみたかったこと)
 特許制度は、発明という天才の炎に利益という油を注ぐものである(リンカーン)。米国では、全ての特許出願が審査され、しかも足腰の弱い天才(発明家)には近道(全特許費用の半額制度)まで用意されているというのに、この国の特許制度は、天才の炎が油に近づくまでに障壁(審査請求制度)があり、その半数以上(91−98年で平均52%)が障壁の前で待っている内にあきらめて、その炎が消えてしまう状況に似ている。審査請求料の大幅値上げはこの障壁をさらに高くする
1)
 小さな発明でも権利になって保護されなければ、それを活用して利益を得、次の発明の糧にする、いわゆる「知的創造サイクル」を回す手立てにはならない(公開だけされて他人に使い捨てされるだけである)。特許出願に至る発明は、その価値の大小を問わず、個人の頭脳に宿った財産であり、それは国家的な財産になる可能性も秘めている。この国では、それを「価値ある権利」として確定する、国際標準の審査基準(後述)も一応用意されている。社会に役立つ発明かどうかは、その審査基準にしたがって審査官が判断することであり、本来、門前払いをする門番が、柵(審査性請求制度)を作って通過料をとり、あれこれ文句をつけて、審査官に書類を届けるのを遅らせ、邪魔をすることはないのである。
 巨大な東アジア市場を西方にひかえ、世界に先駆けて高齢化(成熟)社会を迎えるこの国は、世界最先端の技術や商品の絶好の実験場となるのは間違いない。
2)このような好環境の下で、将来、科学技術創造立国を支える「知的財産立国」を本気で目指すのであれば、個々の出願(発明)を尊重し、大発明であれ、小発明であれ、審査官にその発明の価値を正しく評価してもらう、出願の「全数審査」(審査請求制度の廃止)と、そのための「審査官の大量増員」は必要不可欠である3)
 しかし、現実には審査官の大量増員(欧米並みの2−3倍)は、経済産業大臣や特許庁長官の国会答弁等から判断すると、公務員定員法により絶対に無理である。これは政権が変わっても、いわゆる、外圧などの力がかからない限り、無理である。ということは、科学技術創造立国を支える知的財産立国は、もう先がみえており、期待は持てないということになる。
 定員法の統制下にあるこの社会主義的体制に夜明けはあるのだろうか。

2.審査請求料の大幅値上げへの疑問 
 特許庁は、今秋にも特許出願の審査請求料を約10万円から20−30万円に引き上げる方針だという。その狙いは、審査請求件数の絞り込みによる審査期間の短縮にある。
特許特別会計における収支相償と受益者負担の原則のもと、現行料金体系におけるコスト負担の不均衡と審査請求料の機能低下をなくし、審査請求の厳選を図ろうというのが趣旨のようである。経済がデフレ不況の中、企業の特許関連予算が増えるはずもなく、この値上げが実施されると、審査請求数が厳選され、全出願数の少なくとも60%近くが審査されなくなると予測されるから、確かに審査期間は短縮されるにちがいない。
 しかし、そのような発想自体が、審査の経済的な効率性や収支性のみを重視した考え方であり、特許制度の趣旨に反する。すなわち、この考え方が根本的におかしいのは、本来、特許出願は全数審査であるべきところ、審査請求制度の採用と審査官の定員枠により、出願人に審査請求数を厳選させ、審査される出願数をできるだけ少なくしようとしている点である。このため、審査主義による特許制度そのものが変質し、「発明の公開利用」と「審査の効率性」が重視され、本来の「発明の保護・奨励」がなおざりにされていることである。

3.悪しき審査請求制度
 近代的な特許制度においては、特許は、秘密にしていた発明を国家に公開した代償として与えられる。しかし、この国では、特許出願(公開)しただけでは特許の審査をしてもらえず、さらに審査請求しなければならない。審査請求の期間は出願から3年であり、この期間内に審査請求されなかった出願は取り下げになる。この審査請求する出願の割合(最終審査請求率)は1984年から1994年の平均で約50%弱である。すなわち、特許出願の内、最終的に審査請求されなかった約50%強は、出願後に公開されたまま、何の権利も与えられず、消滅する。公開の代償としての権利はゼロである。
 米国では全部の出願を審査し、ヨーロッパでは全出願についてサーチレポートを作成し、審査請求の参考に提供しているのに比べて、この国の審査請求制度は、発明者に対して冷淡(アンチパテント的)である
4)審査請求されなかった発明は、知的財産として価値のある発明であっても、全く保護されない。審査請求しなかったのが悪いのだろうという態度である。
 審査請求されなかった出願(発明)は公開後、公共の財産として国民に提供されるから、発明の無償利用は図られるだろうが、プロパテントの立場からすれば、知的創造サイクルの元になる権利が生まれないのであるから、結果的にしろ、全特許出願の半数以上の発明が公開されるだけで、使い捨てされているのと同じである(何の代償も与えられず、評価さえもされない)。
 これと対照的に、この国の特許の審査基準は、一般に知的創造物である発明に対して謙虚、かつ肯定的である。たとえば、特許の要件である「進歩性」について、従来技術からの技術的進歩を必ずしも必要とせず、公知技術から容易にアクセスできたかどうかの、いわゆる公知技術からの論理立て(動機付け)の可否を第一義的な基準としている(論理立てができなければ進歩性がある)。ただし、他の要件である「有用性」については、バイオのような先端技術分野では、まだ国際基準から見て厳しすぎる(疑わしきは拒絶する)ようである2)。これに対して審査請求制度(冒頭で述べた「門番」の柵)は、筆者に言わせれば、傲慢であり、「早期審査」に至っては、これに慇懃無礼が加わる。
 審査請求制度を維持する理由として、出願の中には、必ずしも権利化を望まない出願(いわゆる防衛出願)や、無駄な出願も多いということであるが、前者については、そのような出願のために特許制度があるのではなく、また、後者については、審査する価値のない、無駄な出願かどうかは、審査してみなければ分からない(結果論)であるから、いずれも理由にはならない。これからは特許を活用し、知的創造サイクルを促進するのであれば、防衛的な出願がなくなるように、そのような出願の便宜をあたえる審査請求制度は廃止すべきなのである。
 いずれにしても、現在の審査請求制度は、結果的に出願された発明(国民の財産)の半分以上を捨て去るための制度であり、ましてこれを助長しようとする審査請求料の大幅値上げは、国民(企業)の発明(特許出願)への意欲を失わせ、知的財産立国はおろか、この国の特許制度を衰亡に導くものである。何となれば無審査主義の国でも、これらの発明は一応登録されるからである。

4.「発明の潜在的価値」は神のみぞ知る
  (審査請求を厳選する困難性)

 ノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏のレーザーイオン化質量分析装置や、三年前、同じノーベル化学賞を受賞した白川氏の導電性高分子は、いずれの場合も偶然起こった現象(発見)が発明のきっかけであり、それを見逃さずに洞察し、追求したことが成功に結びついたものである。まさにパスツールの言う「偶然(チャンス)は準備をしている者に訪れる」である。
 しかし、その発見(発明)から工業化(実用化)に至るまでの道のりは、決して生易しいものではなかった。田中氏の場合、特許出願(1985年)から約3年後に製品を試作したが、国内では全く売れず、4年目に突然、米国の病院に高価な製品が1れただけで、氏は研究を離れざるを得ず、その後の実用化研究はドイツの研究者に受け継がれた
5)。一方、白川氏の場合は、1967年の金属光沢を有するポリアセチレンフィルムの発見から、1976年の米国での協同研究による発展(ケミカルドーピングによる導電性付与)までに約9年を要している。
 いずれの場合も、発明の潜在的価値については、海外の研究者や企業がまず注目し、海外で評価された後、逆輸入の形でその評価がこの国に戻ってきたのが特徴的である。田中氏の場合、発明から17年たってやっとこの国で一般に認知されたわけである。氏の発明を「貴石」にたとえれば、出願時(17年前)は、たとえば「水晶」位だったかもしれないが、その後、ゲノム解読が脅威的なスピードで進み、たんぱく質の構造や機能を突き止めるポストゲノム研究(医療や新薬の開発)が視野に入るにつれ、輝きを増し、10数年かかって「ダイヤモンド」に変わったようなものである。この国では、残念ながら、その「ダイヤモンド」の輝きを予見し、助言できる賢者はいなかった。
 田中氏の発明は、その魅力ある人格(お国柄、生まれ育ち、教育など)と企業の恵まれた研究環境から産み出されたものであるが、氏自身も述べておられるように、さらに研究中の幾つかの偶然が重なって生まれた、貴重なもの(まさに国の宝)である。この発明は、田中氏でなくても、いずれ世界のどこかの国で誰かが成し遂げるかもしれないが、この国で生まれたことに大変意味があると筆者は思う。そして本当の「プロパテント」とは、情報化時代の必然などではなく、まさにこの国で生まれた貴重な発明(無体財産)を大事にし、その出願があれば全て受け入れ、迅速に審査して、発明を「積極的に」保護・奨励することであると信じている。ここで「積極的に」とは、出願について、審査をあきらめるのを待ったり、厳しすぎる審査で特許になるのをあきらめさせることなく、と言う意味である。ところで、発明というものは、上記と逆に、出願時には「ダイヤモンド」であったものが、後で単なる「石ころ」に変わったり、また再評価されて「水晶」に変身したりする。
 審査請求期間が3年に短縮され、さらに今回、審査請求料が大幅値上げされると、企業は、発明の将来の市場価値や事業価値の予測を、審査請求時(出願から3年)に前倒しし、しかもコスト面から、審査請求する出願数を厳選しなければならなくなる。企業にとって3−20年先の市場の予測や発明の事業性を判断することは、上述のように神のみぞ知る領域である。したがって、将来、市場価値や事業価値が飛躍的に高くなるような重要発明(潜在価値を持つ発明)が、審査請求から漏れ、消滅する危険性が高くなる。これは企業にとって重大事であるが、国家にとっても国富の損失(ないし海外流出)に繋がるので、重大である。すなわち、審査請求されなかった発明も、特許庁のホームページ(公開公報)により、国内のみならず、英訳されて海外にもネット配信されるからである。

5.「受益者負担と公平性の原則」は特許制度になじまない
特許庁は審査請求料の大幅値上げの根拠として「受益者負担」と「公平性の原則」をあげる。「受益者負担」とは、最もコストの高い審査の費用を、審査請求時に出願人(受益者)に主として負担させ、特許後に支払う特許料を相対的に低くして、出願人と権利者の間の公平性を図ろうというものである。しかし、特許庁側の計算モデルによれば、この受益者は出願人のみであり、「国家」は除外されている。国家は有用な発明を審査して特許を付与することにより、保護された発明者は、特許によって新規な事業を興し、それにより国の産業が発展し、国家も潤うのであるから、国家も当然、受益者であるはずである。この国は審査主義をとっているのから、むしろ、審査の費用は、出願人よりも、国家が負担すべきである。また公平性の原則からいえば、将来の事業性(収益性)が分らない初期の段階(審査請求時)に、出願人(チャレンジャー)に費用を多く負担させるよりは、事業が成功し、現実に特許により利益を受けている権利者(成功者)に多く費用を負担させる方(現行の料金体系)が、発明へのインセンティブとなり、知的創造サイクルや、新規産業の育成の上で理に適っている。

6.アンチパテント政策(特許による独占は悪)への疑問
 審査請求料について、「受益者負担と公平性」の原則を持ち出した裏には、特許(発明)は個人の金儲けの手段であるから、国家はなるべくこれに加担せず、費用はその個人に負担させようという、アンチパテント的な考え方があるように思う。この考え方の下では、個人の金儲けの種(特許)を作る「審査官の数」はなるべく増やさない方がよいということになる。そのため、審査の負担になる無駄な出願はするな、出願を厳選しなさい、使われていない特許が多い、というような行政のコメントになる
6)
 ノーベル、キューリー夫人、フレミングなど、偉大な発明者は、自分の発明が万人に使われるように、特許を積極的にとらなかった。今回のノーベル賞の田中氏も、その所属企業である島津製作所でさえ、特許に対して積極的でなく、特許は基本的に自社の技術を守れればよいという姿勢である(受賞技術の特許出願は一件のみ)。企業の伝統として、特許独占による利益をあまり追求しないという謙虚さは、それなりに(個人のレベルでは)評価できるが、企業としては、やはり研究開発投資によって生まれた発明の活用や、付加価値による利益を求めるべきであると思う。余談ではあるが、田中氏の受賞に対し、実用化に貢献したドイツの研究者からノーベル財団にクレームがついたそうであるが、ドイツで若し特許を取っていたならば、(契約その他で)そのように軽視されることはなかったのではないだろうか。また若しその発明で利益を求めないのであれば、無償でその権利を開放すればよいのである。
 この国の特許庁は、出願人に、田中氏のような発明者や、島津製作所のような、特許に対して積極的でない企業であることを期待し、特許出願しても、審査請求制度や、審査請求料の値上げによって、なるべく権利化をあきらめさせる(審査請求の数が少なくなる)ように、誘導しているとしか思えない。このような政策の下では、冒頭で述べたように、発明という天才の炎は、待っている間に(状況の変化により)、多くは消えてしまうのである
7)

7.絶望的な審査官の大量増員
 「受益者負担」の原則によれば、審査官の数を大幅に増やそうとすると、審査請求料をさらに大幅値上げしなければならないから、審査官の大量増員は、当分はあり得ないことになる。経済産業大臣の国会答弁や、特許庁長官の新春鼎談(「特許ニュース」)でも、国の方針(定員法)の中で「できるだけ増員の努力はしたい」ということであるから、大量増員は有り得ない。なにしろ、出願が激増した高度経済成長期でも審査官を1200―300人に抑え、現在までそれを堅持している国である。確かに国がそのような方針であれば、「受益者負担」などの原則も納得がいくし、同鼎談の中で、我が国の審査官は、欧米の審査官の2−3が倍の処理件数をこなして(頑張って
8))いると長官が主張されるのも成る程と思うのである。しかし、これではまるで「定員法下に統制された社会主義体制」である。
 それでもこの国は、一度だけ審査官を大量増員した時代があった。それは日米構造協議(1990年締結)で審査期間の短縮を約束した(いわゆる外圧がかかった)期間である(毎年、現在の2−3倍の100人弱から120人で5年間)。したがって、今後、外圧がかかったり、あるいは政権が変わり、米国以上の強力な政権ができれば、審査官の大量増員は可能かもしれない。

8.この国の知的財産(特許)政策の危うさ
9)
 知的財産基本法案の国会審議で、政府参考人が、「特許庁の審査はもうこのままでいけばパンクします。(中略)その場合、やはり、例えばアメリカで特許が認められたら日本でも認められるという審査の省力化といいますか、重複を省くという、そちらの方向に強く国際的調和を求めていくということが肝要ではないかと考えております。」と述べておられる。しかし、この国の特許庁の審査能力を考えると、これは恐ろしい話になる。
 仮に今、米国特許が日本でも認められるとしたら、米国は全数審査で、審査が早く、一方、日本は審査請求制度があり、審査が遅いから、日米両国にまたがる出願のほとんどは米国で先に特許になり、日本で後からこれを承認する形となる。若しそうなれば、この国の特許権を米国で作ってもらっているに等しく、この国で生まれた発明(子供)にとっては、親に育てる能力がないので、里子に出されるようなものである。まさに親権の放棄、この国の特許庁の空洞化に他ならない。米国の方も、里親にはあまりなりたくないだろうから、結局、特許の相互承認は、基本的に双方に対等の審査能力があって初めて成り立つものと思われる。
 審査請求料の大幅値上げにより、審査請求する出願が厳選されると、審査の負担が減り、定員法下の現在の人員でも審査期間が短縮され、特許の相互承認が可能になるかもしれない(厳選された出願について日米の審査能力が等しくなるから)。しかし、その場合、審査請求から洩れる出願が、現在の50%前後からさらに大幅に増えると見込まれるから、この国の特許制度は、半分以上崩壊したのと同じになる。何となれば、審査請求されなかった出願は、再三述べるように公開されるだけ全く保護されないから、半分以上の出願は、無審査主義国の特許出願よりもひどい扱いを受けることになる。無審査主義国でも、方式審査を通った全ての出願は不安定ながら特許になるので、良いものは「知的創造サイクル」の種になり、救われるからである。 
 「審査官の大量増員を絶対しない」体制下で、審査期間の短縮を図るために、講じられてきた審査請求制度の導入や、今回の審査請求料の大幅値上げは、結果的に、出願された個人の財産(発明)の半分以上を、何の代償もなく、無償提供させ、「知的創造サイクル」を回す種を奪い、その大きな潜在価値を犠牲にするものとなっている。このように、審査をなるべく少なくし、審査の手間を省くことに専念するあまり、結果的にもせよ、国民の財産を犠牲にする(特許を軽視する)政策は、この国の「特許制度」の信頼をそこない(特許制度の目的に逆行し)、国民の健全な発明の権利化(財産権化)への意欲を減退させ、やがてこの国を衰亡に導くものである。

9.むすびに
 特許制度のユーザー(国民)にとって、審査官が少数精鋭で行政コストがかからないのは理解できるが、それによって特許出願の半数以上が審査されず、「知的創造サイクル」の元になる権利さえ与えられず、消滅していくことを考えると、審査請求制度や、審査請求料の大幅値上げは、省益は温存されるけれども、国益(国民の利益)になるとは到底思われない。
 知的財産基本法に照らせば、同第3条で、基本理念として、技術革新の進展にも対応した知的財産(発明)の迅速かつ適正な保護を図り、第10条でそれらの施策を推進するに当っては、その公正な利用および公共の利益の確保に留意するものとしているが、結果的にしろ、特許出願の半分以上を犠牲にし、審査する出願の数を厳選させて審査の迅速化を達成する、この国の特許政策は、第3条の基本理念でいう知的財産(発明)の「適正な保護」を図るものではなく、また施策にあたり国民の知的財産の「公正な利用」に留意している(同第10条)とは到底言えないものである。
 全ての特許出願を、大増員された審査官が迅速に審査し、多くの権利を早く確立するようにすれば、更に言えば、審査官が出願を拒絶するためではなく、特許するために、使命感をもって審査するようになれば、(何もしなくても)多くの問題が解決し、本当のプロパテントによる「知的創造サイクル」が、力強く回りはじめるに違いない。これは今更、米国の例をひくまでもあるまい。以上 

注)拙稿に対して、X弁理士から貴重なコメントを頂いたので、以下に掲載する(本文中の上付きNo.)と対応)。

1)米国と全く異なり、発明(者)を励ます(エンカレッジ)のではなく、発明を止めさせようとしている(ディスカレッジ)。
2)これは、審査の現場の問題であるが、最近、中国の出願人から、バイオの発明の特許出願を、日本を除いて、米国、EPに出願するのだということを聞いた。なぜか。日本のバイオの審査基準のハードルが他国に比べ高すぎて、特許出願しても取れないというのである(特に「有用性」の要求が厳しい)。これはバイオの遺伝子の発明においては、知る人ぞ知る事実である。そして、「有用性」については、バイオだけでなく、これから伸ばそうとするナノテクなどの先端技術の特許について議論すべき重大な問題である。既に、アジアから、上記のように特許についてジャパン・パッシングの兆しが起きているように思われる。
3)発明をエンカレッジ(encourage)して特許しようとするのではなく、無闇にハードルを高くして出願を全部拒絶しようと躍起になるから、出願人の反論も大きく、審査に手間がかかるのである。基本的には、疑わしきは罰する(特許しない)ではなく、米国のように疑わしきは罰せず(特許する)の原則に変えるべきである。
4)たとえば、この国の特許査定書は、「特許性があるから特許する」というではなく、「拒絶できないから特許する」(特許法第51条)という文言である。何という、出願人を意気消沈させる言い方であろうか。
5)ちなみに3名の共同受賞のノーベル化学賞で、賞金取り分は1人が1/2で田中氏の取り分は1/4であった。したがって田中氏の国際的な貢献度の評価は1/4にすぎない。
6)これは、個人の趣味的レベルの話ならともかく、後進国と思われていた中国などに技術的に猛烈な追い上げを受けている現在、知的財産立国を国家戦略にしようとしている我が国において、許されることではない。
7)国は発明をエンカレッジするように見せて、ディスカレッジしているのである。
8)実際は「発明を特許をするためでなく、なるべく多く拒絶するために」
9)この国の知的財産立国は、お題目(理念)だけで、審査の現場を含めた現状認識に疎く、したがって全体の基本的な戦略的政策が欠如している。 以上





        
以上

この記事は弁政連フォーラム第122号(平成15年1月25日)に掲載したのものです。
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